8/11 錦戸 こころとからだの健康
お疲れ様です。最近は1年生や2年生の人数が豊富なせいでブログが回ってくるのが遅いですね。いいことです。やっぱり人数いた方がにぎやかで楽しいです。
さて8/11のメニューは1200*6 r=1'でした。七大戦が終わって鍛錬期までの立ち上げの段階で確実にいくことを意識しました。結果として割と余裕をもって終われたかなと思います。たぶん土曜垂れたからですかね。なんか土曜練最後絞り切れると月曜練調子落として、逆に土曜練垂れると月曜練調子いい気がします。自分だけでしょうか。まだまだ暑いですがこのまま調子を落としすぎず地道にやっていきたいです。
今日のブログなのですが、久しぶりにまじめに書こうかなと思ってます。内容としては自分のこれまでの陸上人生を振り返りつつ、それぞれの時期の主にメンタルについて語っていきます。かなり自分自身メンタルの面で悩んだことがあったのでなにか参考になればと思ってます。これから書く内容にちょっと重めの話や気分が悪くなる話もあるかもしれませんが途中で読むのをやめてもらっても構いません。
私が何気なく走る練習を始めたのは小学1年生の頃です。陸上をやっていた3つ上の姉と父に連れられ、毎週土曜や週2ほどのランニングを行っていました。当時は出られる大会が限られており、毎年一回9月に開催されるちびっこ健康マラソン大会という大会に参加しそこで上位に入ることを目標に練習していました。多分この大会はほぼ全都道府県であり(宮城はありません)、岩手はその中でも出場人数で全国1位だった気がします。そのくらい岩手のなかでは陸上の登竜門的な大会でした。1年生で2位になってから1位を獲りたいと思うようになり、そっから私の陸上に対する思いも強くなってきます。このころは純粋に楽しかったです。記録を向上していくことの喜びや楽しさも感じつつ、大会や普段の練習で県内の猛者や姉、父といった自分より速い人がいることへの憧れ、悔しさなど誰もが感じる陸上の魅力を思う存分味わっていて、ずっと楽しかったです。そんな僕に転機が訪れたのは小学4年生の頃でした。当時の僕は3年生のころから本格的に陸上のクラブチームに所属しはじめ、さらに練習にも身が入っている状態で、9月のマラソン大会でいよいよ初優勝できそうというところまで来ていました。しかし、大会の2週間前に休み時間中に足首を捻挫し、靭帯の損傷と骨折をしました。全治2か月でした。陸上人生だけでなく人生はじめての挫折です。これまで陸上が楽しくてしょうがなく、1年に1回の大会にすべてを賭けておりようやく優勝が目の前に見えた直前での骨折でした。ただの骨折じゃんと思うかもしれませんが、それだけその大会に賭けていた分、そしてこれまでの人生でそれほどの大きなアクシデントや怪我がなかった分、当時の自分にとってはかなりのショックでした。松葉杖生活になり、今まで当たり前のようにできていたことが急にできなくなりました。その途端、精神的なストレスが体に現れ始めました。なにも食べれなくなったのです。それまでは体は小さくてもかなり食べる方でした。しかし、その日を境に食べては吐き、食べては吐きを繰り返し、最終的には口に食べ物を入れることすらままならなくなってしまいました。3時間くらいかけて小さいお茶碗1杯のご飯を食べていたのを覚えています。怪我もよくなり、走れるようになってからこの症状もよくなるかなと思っていたのですが、これがなかなか治らなかったんです。最終的に完治したのは多分中3くらいです。これには後述するほかの要因もあるのですが。それでも足の方は徐々に良くなっていき、4年生の冬季は死ぬほど練習しました。ランニングマシンで倒れそうになって隣のおじちゃんに心配されながら毎回死ぬ気で走ってました。この成果もあって徐々に力がついていき迎えた9月。2年越しに出場できると喜んでいた最中、大会の1週間前に再び腕の骨折をします。また振り出しに戻ったような気がしました。これでまたあの症状も復活してしまいます。しかし、今回は耐えました。なぜかというと腕だったからです。ギブスを付けながら強行出場しました。3位でした。その時はさすがに嬉しさが勝っていたような気がします。ここからは僕の陸上人生の極大値へと向かっていきます。5年生にもなると出場できる陸上の大会が増え、様々なトラックレース、ロードレース、駅伝に出場するようになっていました。そして6年生シーズンではシーズン無敗のまま迎えた9月のちびっこ健康マラソン大会で悲願の初優勝。これが今までの陸上人生で2番目に嬉しかったことです。過去6年間のいろんな思い出やつらかったことがこみ上げてきました。10月には所属する陸上クラブで駅伝の全国大会に出場し、10位を獲得することができました。同じ区間には現高校記録保持者の吉岡大翔君や中央大の本間颯君が走ってました。ぼこぼこにされました。
中学1年生になり、まだ好調は続きます。中学生になってから本格的にトラックを始め、きっちりタイムに現れ、その1秒、0.1秒を競い合う陸上の面白さに気付き始めます。1年生の6月に県通信で優勝をし、東北大会へ出場を決めます。県通信の2週間後、県中総体がありました。ここで陸上人生2回目の挫折が始まります。今まで県内では1位だとずっと思っていた鼻がへし折られたのです。久しぶりの負けでした。ここから自分のなかで何かが狂っていきます。当時、自分の中学は陸上部が無く、一人で練習するしかないという環境でした。またこれまでずっと一緒に走っていた姉も宮城の高校で寮生活を始めたので大体の練習は一人でした。今思えばそのような環境で自分を律し、一人で追い込めるほど自分は強くありませんでした。その敗戦を機になおさらその弱さが出てきた気がします。迎えた東北大会では惨敗。組で最下位でした。また、このころから別の悩みが出てきます。それは「錦戸」の弊害です。当時姉は岩手県の陸上界ではかなりの有名人でした。というのも中1で東北大会を優勝し、中2から全国大会の常連になったことで、岩手の陸上の先生の中では錦戸の名はかなり知られていたからです。なので、珍しい苗字で顔もそっくりなのですぐその弟だと先生方もわかってくれます。だからこそその重圧が自分を苦しめました。どこにいっても錦戸の弟という立場で何かを常に期待されている気がして、そんななか自分の調子は上がらない。そういうプレッシャーと常に戦っていました。そこに貧血などが重なりどんどん調子は落としていきます。この時期から摂食障害は再発してきた気がします。さらに、この時期になって別の症状が現れ始めます。それはレース中や練習中の「ぬけぬけ病」や過呼吸です。これらは主に精神的な部分からくる症状だといわれています。レース中にこれらの症状が出るとおしまいです。何回も組最下位を取りました。最後ふらふらになってゴールしようとすると観客が拍手をしてくるんです。彼らは絶対悪気はないのだろうけどあれが屈辱的でたまらなかった。ほんとに。しかもそれを先生方や家族に見られているのがとても嫌だった。レースで失敗する理由は他にもありました。それは過度な緊張、ストレスによる嘔吐です。中1の後半くらいから召集前とかレース前になると強烈な吐き気が襲ってきて吐いてしまうことが多くなりました。中2くらいになるとそれを恐れ、毎回試合会場について一番最初にすることはトイレでの嘔吐でした。これをすればレース前になって吐かなくて済むからです。これのせいで多分毎回エネルギー切れだったんでしょうね。こんな感じで中学時代はほんとに苦しかったです。ふつーに何回もやめようとしてました。それでも陸上家系で生きている以上やめられないという負い目を抱えながら続けていたと思います。
そして高校に入ります。高校では陸上部があったので入ることにしました。ほかに特にしたい部活が無かったからというのが一番近い理由だったと思います。この辺から自分は第二の陸上人生が始まったと思っています。姉は高校から県外にいたことで前ほど高校界隈で錦戸の名が知られていることはなかったし、自分もどん底のさらに底まで落ちたので今までのしかかっていたプレッシャーが完全に消えた気がしたんです。またみんなと走ることの楽しさや部活の楽しさも感じ、チームとしての新たな陸上の魅力に気付いた気がしました。そこからタイムは全くでしたが、純粋に陸上を楽しめるようなり、今までの症状もすべて消え去りました。そして、徐々に走れるようになっていくとまた全盛期のときのように東北大会などの上位大会に出てみたいと思うようになり、駅伝強豪校などがあまり出ない狙い目の800mに目を付け、高2の春から800mを真剣に始めることになります。すると見る見るうちにタイムが伸びていき、迎えた9月の新人戦で東北大会を決められました。この時が陸上人生で一番うれしかった時です。小学校のときを含め中学でのつらさがすべて報われたような気がしました。結果として東北新人は中止になってしまったのですが翌年の高総体で東北大会出場を果たせました。奇しくもその年の会場は初めて自分が東北大会に出場を決めた中1のときの青森でした。なにか縁を感じました。東北大会はボロボロでしたがあの時と比べたら、なにもプレッシャーを感じることなく走れるだけでもうれしいことでした。
そして、大学に至るというわけです。大学では今のところ思う存分やらせてもらえてるし、陸上のすべての魅力を感じている気がします。そのくらい充実しています。特にこの間の七大戦はめちゃくちゃ心を動かされました。自分の陸上人生で3番目に嬉しかった出来事です。
ここまで長い間読んでくださりありがとうございました。ところどころ気に障るような表現や描写があったことご容赦ください。自分が伝えたかったこととしては2点。まずは陸上ってほんとに山あり谷ありってことです。多分多くの人よりは陸上経験長い自分が実体験を通して自信を持っています。組で1位になることだってあるし、最下位になることだってあります。多分自分は最下位になったことの方が断然多いです。それでも僕たちが陸上を続けている理由ってその1位になることを夢みているからですよね。数少ない1位かもしれないけどその時の嬉しさといい、高揚感といい、これまでのダメダメのレースをすべて忘れ去ってくれる、そしてその感情を自分が覚えているからまたそれを求めて陸上を続けているんだと思います。それは別に順位だけでなくタイムでも然りです。だからこそ大学生とか社会人になってまでこんなにきついことを続けようとする人がいるんだと思います。だから、今が例え谷の状態であってもそれが予想以上に深くて長い谷だったとしてもいつかは山になります。それを信じてやってほしい。それが僕の願いです。二つ目はどうしてもつらい時はちょっと離れったっていいってことです。自分が中学の大スランプから立ち直れたのは高校という新しい環境に身を置けたこと、そして高校受験というちょっとした休憩時間があったからだと思っています。陸上から少し離れたからこそ陸上に対する変なプレッシャーとか嫌なこととかがリセットされて、その魅力を再確認できたのかなと思っています。あとは、中学の大スランプ時期に何度もやめかけたという話をしましたが、やっぱり1週間くらい走ってないとなんか無性に家の近くの河川敷を走りたくなってくるんですよね。やめたいと何度も思っている時期でもそんなことするってことはやっぱり根は走るの好きなんだなってことです。多分みんなもそうなんじゃないかなと思います。だからこそちょっと距離を置いた時に分かるんですよね多分。自分走るの好きなんだなって。これは不調の人に向けてだけでなくて、別に今普通に調子いい人に対しても言えることで、たまにでいいのでほんとにゆっくりただ単に景色とか自分の好きな道とかなんでもいいんできつさとか陸上を忘れてただ単純に走る楽しさを感じられるjogをしてみてください。それだけでめっちゃ走ることに対するモチベ上がります。特に秋とか春とかおすすめ。あと晴れてるときね。
最後に、現実的に考えて、自分が今までの人生の大部分に時間を使ってきた陸上を続けられるのもここ2~3年かなと思ってます。だからこれまでの後悔とか思い残しをすべて回収して引退したいと思っています。なので自分の最後の陸上の目標は全カレにします。これまでずっと全国大会というものに憧れを抱き続けてきました。姉や父が達成した目標だったからというのも理由の一つです。それでも高校では自分にはさすがに厳しいと思って東北大会を目標にしていました。これまで、中1の総体で勝っていたらとか、違う中学に入っていたらとか、中高で全国大会を目標にしていたらとか陸上人生で色々考えることはありますが、泣いても笑ってもこれが最後の目標です。陸上人生の未練である、個人で全国大会出場を最後に果たして悔いなく引退したいと思います。今の自分はB標まであと3.1秒。今のPB+3.1秒となると受験期間(1年間)抜きでも2年2か月前です。となると単純計算ではM1の9月。ぎりぎりです。しかもB標では出られないかもしれないしB標上がるかもしれないし目標は50秒台でいきたいです。正直PCもほぼ任期終わったし、肩の荷は下りたのであと数年本気で自分の目標に向かって頑張ってみます。
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